北京オリンピックはウイグルのジェノサイドに抗議するために開会式は観なかった。私一人が観てもみなくても中国にとって何の抗議にもなっていないのかもしれないが、ともかく習近平の顔を見るのが嫌でテレビをみなかった。
その後の流れで競技の中継も観ていない。日本選手のメダル、残念ながらメダルを取れなかった話、審判員の判定の問題、などのニュースは観ている。
それで充分で結局何の問題もなかった。
むしろニュースで肝心な所だけやってくれた。オリンピックは私にとってハイライトだけで十分なことが分かった。
スノーボードで「1440」とかいうので360度で割ると4回転していることが分かって喜んだりしていたが、それ以上観ることはなかった。
オリンピックの競技を中継で観ていなくても全く問題ないのはなぜなのか考えてみるとはっきり言って面白くないからだ。
どのスポーツも「やる楽しみ」と「観戦する楽しみ」がある。
すべてのスポーツは「やる楽しみ」があるはずだが必ずしも「観戦する楽しみ」があるものではない。
「やる楽しみ」と「観戦する楽しみ」の両方があるスポーツは商業主義が成り立ってメジャースポーツになる。野球、サッカー、アメリカンフットボール、ラグビー、テニス、バスケットボールだ。
「やる楽しみ」はあるが「観戦する楽しみ」がないスポーツは商業主義が成り立たなくなってマイナースポーツになる。テニス、スキー、スケート、スノーボード、卓球、陸上、体操、などだ。
もちろん羽生選手の演技を観戦するのは楽しいが、野球やサッカーのようにかなりの日数をしかも長時間楽しむことはできない。
ここで言う「観戦する楽しみ」と居間やバーでビールを片手にワイワイ言いながら数時間楽しむことができるということだ。
商業主義に会わないスポーツの選手は当然報酬が低い。
そしてその商業主義に会わないマイナースポーツをバルクにして商売にしたのがオリンピックだ。
選手たちは経済的に救ってくれるオリンピックにたてつくことはできなし、オリンピック協会、開催自治体とその国家、マスコミ、広告主に対して弱い立場となり奴隷的立場となる。
そしてマイナースポーツの選手たちはオリンピックを否定することはできない。オリンピックを支持し、オリンピック協会は選手たちを食い物にして商売を続けていく。
2022年2月12日