旧統一教会問題を考えるにあたり、信者から生活に支障が出るまで金をむしり取り、韓国かどこかに送金していたのは一般的な常識からして完全に信教の自由を濫用したことになるし、福祉のために利用されたなどとは到底思えない。
自由には必ず制限がある。その制限をどこまでやるかを議論しなくてはいけないのに、社会に多大な迷惑と損害を与えているにも関わらず、信教の自由は保障されているから踏み込めない、というのが大方のマスメディアの論調だ。
おそらく信教の自由に制限を加える議論が始まると国民は自由が制限される場合があることに気が付く。マスコミの表現の自由にも飛び火して制限が掛けられることを恐れているのかもしれない。
公明党は創価学会という宗教団体が支持母体となっている。与党でありマスコミにも力のある創価学会に忖度しているとも考えられる。
どこまでが信教の自由であり、どこからが信教の自由の濫用になるのか、我々は国会で議論しなくてはならない。
過去に警察官を大学内に拘束した人たちは大学の自治の自由を主張したが裁判で退けられた。アメリカで銃を持つ自由は基本認められているが日本ではそんな自由はない。
自由は制限される、その線引きは国によって違う。それぞれの国の憲法と国会における議論をもとに法律でなされるものだ。
国会議員の皆さんは自民党の統一教会とのつながりを叩くことしかしていない。宗教団体の信教の自由をどこまで制限するのか、堂々と議論を始めてもらいたい。
2022年10月17日