40年前ある国立大学4年生の学生は卒論のテーマを「国債の負担」とすることでゼミの教授に報告をした。
ゼミでは経済に関するテーマであればなんでも良いことになっており、特にそのゼミは金融論で教授の専門範囲でもあったので教授はすぐに了承した。
その学生は典型的な体育会の学生で運動第一で勉強は後という感じの学生生活を送っていた。ゼミのテーマを「国債の負担」としたのは、卒論テーマを決める参考になるかとめったに行かない大学の図書館に行ったらけっこう書籍があって、うまくコピペして意見を付け加えれば簡単にできるだろうと思ったからだ。
1980年代当初建設国債に追加して赤字国債の発行が始まっていた。
そのころ赤字国債は将来の世代が返さないといけないというのがマスコミや一般の理解だった。
その理屈をそのまま書けば卒論は比較的短く始末できると考えたのだ。
建設国債の負担については簡単にケリがついた。だが赤字国債になると考えれば考えるほど将来の世代が負担するのかどうか分からなくなった。
迷いは、ゼミの頭のいい友人がインフレになったら国債を買った人がインフレの目減り分を負担することになる、と聞いたことから始まった。
それをきっかけにその学生は国債元本を永遠に償還しなかったら誰の負担にもならないではないかと考え出したのだ。
「国債は返さないといけない」という常識は実は違うのではないかと思うと頭の中が混乱してきた。
金は誰かが何かに交換する義務はない、非兌換紙幣も政府日銀は発行するだけで政府日銀は何かに交換する義務はない。国債も非兌換紙幣とこの点でもしかすると同じなのではないか。
ゼミでは金融論をやっていてどうして「金の価値はなぜあるのか」という基本的なことも勉強する。金に価値があるのは、結局のところみんなが金に価値があるとしているからだ。
金に裏打ちをされていない非兌換紙幣もそれを利用する人たちが1万円札には1万円の価値があると認めているから価値があるのだ。金をただの光る土と思った瞬間金の値打ちはゼロになるし、一般の人が紙切れだと思った瞬間紙幣の価値はゼロになる。
国債も同じだ。国際を保有したり流通しているひとたちが価値があると思う限り国債の価値は落ちないのではないかとその学生は考えるようになった。
金や紙幣と違うのは国債は金利を払わないといけないという点だ。
金利を発行者との政府が払うことを一般の人が信じれば国債はその限りにおいて無制限に発行できるのではないか、ということだ。
その学生はそこまで考えたが、運動と遊びばかりの学生生活で、勉強はあまりやってこなかったし、よくわからないのでもういいやとむりやり書き上げた。卒論は学生本人もまとまりのないと思うものになってしまった。
「ともかく卒論を書きましたが、国債の負担って誰が負担するのか色々考えたのですが結局分かりませんでした」と正直にその学生は教授に言った。
教授はなにやら笑顔でアドバイスをくれたが覚えていない、そして成績は「優」をくれた。
ぜひともその私の卒論を探し出して矢野財務次官に読ませてみたいものだ。
2021年10月13日