ドラコの資産運用 織田俊夫

政治、経済、社会、を常識眼で分析すれば資産は10倍になる

鉄棒と跳び箱は必要なのか。

 私は小学校の頃体育の授業が大嫌いだった。

 10月に運動会があるがその前になると憂鬱だった。

 なにせクラスで前から1,2番目のチビでかつ一番痩せていた。よく小さくても運動のできるこどもはいるが、私は徒競走をするとビリから一番か二番だった。夏になると体操着が半ズボンになって、足が細くて友達から指摘されるのが嫌だった。

 幸いプールで泳ぐことができたのと、ラジオ体操やフォークダンスなどは真面目にやっていたので一応体育の成績はなんとか2か3だった。

 特に鉄棒と跳び箱は大嫌いだった。

 逆上がりはいままで生きて来て一度もできたことはない。

 できないのなら練習すればいいのだが、友達に教えてもらう勇気はなくひたすら体育の鉄棒の日は学校をさぼるか仮病を使って見学をしていた。

 小学校の高学年であれば跳び箱三段を飛ぶことができるのだが、これも最後まで飛ぶことができなかった。

 いまでも体育の鉄棒と跳び箱は何のためにあるのかと疑問に思っている。

 文部科学省の教育方針によると鉄棒と跳び箱の目的は「できないことができるようになって達成感を感じること」らしい。

 それは他のことでも達成できるわけで社会人になったら絶対やらない鉄棒にぶら下がったり、跳び箱を跳ぶというようなことをこどもにやらせるのは時間の無駄だと真剣に思っている。

 調べると両方とも明治時代にスウェーデンの体育を見習って取り入れたようだ。本当に明治維新の頃の教育者たちは尊敬しているがいらぬことをしてくれたと思っている。

 当時は金もなく専門家も限られた時代だった環境で精いっぱいの体育教育を考えたのだろう。だが今や時代遅れになっている。

 こどもたちが行っていたインターナショナルスクールでは鉄棒も跳び箱もやっていなかった。

 小学校低学年からサッカー、ラグビー、野球、テニス、スキー、スケート、自転車、自分の好きなスポーツを選ばせて、週3回ある体育の時間の内1回でもその練習にするべきだ。

 小学校からやれば専門家になるかは別として一生できることになるはずだ。

 一つのスポーツができればこどもたちの人生は楽しくなるにちがいない。

 実現できないのはどのスポーツも満足にできない無能な教員にやらせようとするからだ。専門家はいくらでもいる。どんどん外部から呼んで教えればいい。

 少なくとも私のように鉄棒と跳び箱に一生恨みをもって生きるこどもが少なくなるはずだ。

2022年8月28日